18歳で臼杵を出るまでの私の最寄り駅はJR臼杵駅でした。
Uターンしてからは仕事場の立地から上臼杵駅を多々利用しています。そして、この駅を使いたくなるもう一つの理由がそのノスタルジックで美しい駅舎の風景です。
2年前制作した臼杵のガイドマップ「わたしのうすきとりっぷ」でもこの駅舎の風景をどうしても紹介したくて写真を載せたのですが、その後も撮影のために来ていると思われる観光客の姿をちらほら見かけます。
かつての最寄り臼杵駅と今の最寄り上臼杵駅。
この二つのJR駅は直線距離にして1.6キロメートル、時間にするとたった2分。普通はこんな田舎のこの距離に二つも駅はありません。何故か??
調べてみたら面白い臼杵の歴史が見えてきました。
今回はこの二つの駅の歴史と、多くの人に愛されている現在の上臼杵駅の様子を2回に渡ってレポートしたいと思います。
臼杵に鉄道がやってきた
臼杵市に初めて鉄道駅ができたのは1915年、現在のJR臼杵駅が第一号です。当時は平屋の木造駅舎でしたが、1981年に改築し現在に至ります。一方、上臼杵駅は1917年に開業し、当時の木造駅舎が現役で使用されています。
そもそも大分県内での鉄道敷設が進み始めた明治当時、計画に臼杵市は入っていませんでした。そのことを知った臼杵商談会(商業だけにとどまらない臼杵の振興会)が誘致活動を行い、郷土の政治家や財界人を巻き込んで30年がかりで現在のJR日豊線の流れを作った、という歴史があります。
そして臼杵駅の開業に多大な貢献をしたと言われるのが郷土が生んだ政治家・山本達雄と箕浦勝人(みのうらかつんど)です。
両者の実家は西海添のお向かいさん(現在のかいぞえこども園とその向かい)でしたが、2人は臼杵市を二分するほどの政敵になってしまいました。
山本は貧しいながらも日銀総裁まで上りつめ、その後大蔵大臣に。一方の箕浦はジャーナリストから政治家になり、大隈重信内閣では逓信大臣を務めました。
鉄道誘致が熱を帯びていた1910年、臼杵商談会が中央政界にいる山本や箕浦に掛け合って実現したのが当時の逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平の臼杵訪問。臼杵市は市民総出の大歓迎で、当時の写真には三重塔前の平清水の道沿いにずらりと並んだ国旗と人々が写っています。後藤新平もこんな歓迎を受けるとはびっくりだったと思います。現在でも市内でその足跡を見ることができ、食事会が行われた料亭「喜楽庵」の広間には後藤直筆の書が今なお残されています。
郷土の政治家の超党派による協力や、どうしても鉄道を呼び込みたい商人たちの情熱もあって臼杵駅は無事開業。「めでたしめでたし」で終わると思いきや、山本の働きの方が箕浦の前面に出すぎ、臼杵駅が「山本駅」などと呼ばれたそうで、箕浦サイドにはちょっと不満があったのかもしれません。
この点、本当のところは関連図書を見てもよく分からなかったのですが、もしかしたら臼杵商談会を立ち上げた一人(カニ醤油9代目・可児孝次郎氏)の子孫なら知っているかもしれないので、今度カニ醤油の12代目に聞いてみようと思います。
平清水(ひらそうず)VS町八町の仁義なき戦い
今ののんびりした臼杵市では想像できませんが、明治から大正にかけての臼杵の政争はかなり激しかったようで、なにかにつけ町を二分していました。その代表が山本(政友会)VS箕浦(憲政会)であり、平清水VS町八町、臼杵駅VS上臼杵駅へと繋がっていきます。
お先に開業した臼杵駅ですが、そのお膝元は町八町。当時町八町と利権を争っていた平清水地区(三重塔や福良天満宮のある通り)の人々は何とか平清水につながる場所に駅を作ろうと奔走したそうで、その活動の表に立ったのが箕浦でした。当時大隈重信内閣で逓信大臣だった箕浦の力を得て、平清水につながる福良地区に上臼杵駅を1917年、本当に開業したのです。政治の力ってすごい。 結果、「臼杵駅の父」である山本に対して箕浦は「上臼杵駅の父」となったのです。
今は平清水VS町八町などという構図は全くありませんが、特に明治から大正にかけてこの二つのエリアの仲の悪さはいろいろな話を生み出しています。意地の悪い話もあるし、「へ~、頭いい!」というとんち話のような逸話もあるなど、後世では読み物のように、あるいは反面教師のようになっている点もあるかと思います。そんな仁義なき戦いの中で生まれた上臼杵駅ですが、現在は地元の人にとても大切にされる「愛され駅」になっています。
次回は現代に美しくノスタルジックな光を放つ私のお気に入り、上臼杵駅の現在をレポートしたいと思います。
【参考書籍】*全部臼杵図書館で借りられます
「ふるさとの思い出写真集 臼杵」板井清一
「臼杵歴史散歩」高橋薫
「臼杵人脈」吉田稔
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