超ド級の波乱万丈人生!臼杵の偉人「田中豊吉」(前編)

最終更新: 2019年8月25日

先週ご紹介できなかった臼杵の偉人・田中豊吉氏(以下、敬称略)。

「田中豊吉って誰よ?」

という方が多いのも現在ではいたしかたないかもしれません。私も、先々週のブログ「イケてる臼杵市立図書館」を書くにあたり調査していた時に、

「あれ?そういえば市立図書館の本館ってもしかして誰かの寄贈?それとも市の予算で作られたの?」

と湧いてきた疑問を解決するための調査で知った人なのです。

あれほど子供時代にお世話になった図書館について、昭和48年生まれの私がこれなのだから、平成生まれならなおさら知らないかもしれません。


今回は臼杵市民が知らず知らずのうちにかなりお世話になっている、そして移住者も何かの折に触れて身近に感じることになるであろう、この田中豊吉についてご紹介していきたいと思います。


おさらい:一個人の寄贈から始まった2つの図書館

現在の臼杵市立図書館は、「荘田平五郎記念こども図書館」と「本館」に分かれます。

明治時代の日本を代表する実業家・荘田平五郎(1847-1922)は臼杵市の出身で、三菱の基礎を築いた人物。彼が1918年に臼杵市に寄贈したのが現在のこども図書館で、その玄関脇には「故郷臼杵よ、文化の光に浴せよ、そしてより美しい臼杵に成長せよ」という彼の言葉を刻んだ碑があります↓

「自分を育んでくれた故郷への恩返し」を強く感じる言葉です。


また、女子の教育がまだまだ制限されていたこの時代に男女閲覧室の1Fに加え、女子専用の2F閲覧室があったのはかなり画期的なシステムだったと思います。


図書館運営においても、彼の寄付した株券の利子で行われていたとあって、当時の一個人が行ったものとしては驚きの社会貢献と言えます。


そして自身の父親がこの荘田平五郎と同時代を生きた二代目・田中豊吉。彼が1970年に、当時の額で3,000万円の建築費を寄付して建てたのが、現在の臼杵市立図書館・本館なのです。


田中豊吉とはどこの誰なのか?

では、この田中豊吉という人は誰なのか?

調べてみると、あるサイトで

「昭和44年、臼杵鉄工所が創立50周年を迎えるにあたり、鉄工所創設者、田中豊吉氏がその記念事業として臼杵市に新図書館の寄贈を申し出て建設」

と結構あっけなく見つかったのですが、念のために市役所で裏を取ることに。担当者からは

「寄贈されたのは畳屋町にある『田中商店』の田中豊吉さんですね」

という回答があり心底ビックリです。その理由は以下の3つ;


1)臼杵鉄工所の豊吉さん(←調べていくうちに豊吉さんと呼ぶように)じゃないの!?

2)畳屋町の田中商店ってウチの不動産管理会社に関連ある・・

3)しかも金物屋じゃなかったっけ?


(2)について細かく言えば、私の運営する事業「ケレシュ」の店舗物件を管理してくれているのが「旭プラザ(有)」なのですが、この会社のオフィスは田中商店内にあり、私の店から自転車で1分くらいの超近距離なのです。しかし、田中商店は金物店。私の昭和的イメージの金物店と言えば、軒先にタライやヤカンがぶら下がっていて、それらの生活必需品を売っているお店、というもの。とても昭和45年当時の3,000万円をポンッと寄贈できる店とは失礼ながら思ってもみなかったのです。

「これはもう直接田中商店に行っていろいろ聞いてみるしかない!」

と思い、自転車で1分、鼻息荒く到着した田中商店の軒先↓

私のお店の管理をいつもよくしていただいている旭プラザのEさんに質問を投げかけると、田中商店の豊吉さんと臼杵鉄工所の豊吉さんはやはり同一人物とのこと。臼杵鉄工所の豊吉さんであれば図書館の寄贈も可能な話で納得です。そして「これに細かいことはすべて書かれてあるから」とお借りしたのが、田中豊吉米寿記念の「頌寿」という自伝的お祝い本↓

278ページありましたがかなり没頭し、その日のうちに読んでしまうほど強烈な内容でした。


「田中屋金物店」初代・田中豊吉から二代目・田中豊吉へ

時は江戸末期、1860年に生まれた田中豊吉は幼い時の奉公から苦労に苦労を重ね、臼杵の中心地、八町の一つ、畳屋町に「田中屋金物店」を開きました。開業当初の場所は、現在駐車場になっています↓

あっさり書きましたが、金物屋での奉公に始まり、賃貸していたお店を売買契約するまでに同業者の嫌がらせにあうなど、略伝の7ページが終わるまでに既に「おしん」並みの波乱万丈さが描かれています。


そして図書館を寄贈した二代目豊吉がまだ19歳の時に初代が病で亡くなり、いくつもの戦争をまたいで事業を拡大した、二代目豊吉の波乱万丈の商人人生が始まります。


「いじめ」がきっかけで大成功

前述した同業者の嫌がらせは二代目豊吉になってもおさまらず、通常同業者同士で分け合うはずの材料を分けてもらえませんでした。仕方なく自店で天草までその材料を買い付けに行くときに「焼玉エンジン」というものに出遇います。

私もこのエンジンの詳細はよく分かりませんが、本を読む限り小型船に付けるエンジンとのこと。確かに当時の臼杵で行き交う漁船や小型の貨物船には無かった装備で、この製造と装備を請け負うことができれば独占ビジネスです。彼は知識も人材も手に入れ、1919年、28歳にして焼玉エンジンを製造する「株式会社 臼杵鉄工所」を創立しました。


驚いたのは臼杵鉄工所のあった場所。私の店舗の目と鼻の先、現在フンドーキン醤油株式会社(以下、フンドーキン)の工場が建つ中州一帯ではありませんか!そして、「素敵だなぁ」といつも思っていた中州にある古民家が、実は田中家の自宅だったのです。ちなみに築大正13年↓

現在はフンドーキンの本社オフィスで、中は老舗旅館を彷彿とさせる素敵な造り。こんな本社社屋で働けるなんて、本当に羨ましい!是非未来に残す臼杵の文化財の一つとなってほしい建物です。今回はフンドーキンにご協力いただき、内部も撮影させていただきました↓

100年くらい前に、田中家の人々もこの素晴らしい自宅から臼杵川の景色を眺めていたのでしょう。


良くも悪くも戦争に巻き込まれる

焼玉エンジン工場に続き造船工場もこの中州一帯に作り、国からの工場認定も受け順風満帆に操業していましたが、1937年に起きた盧溝橋事件に端を発した日中戦争~太平洋戦争の激化に伴い、臼杵鉄工所も軍管工場指定を受けることになりました。


現代を生きる私としては、臼杵に軍需工場があることにかなり抵抗感を覚えますが、当時の会社としては軍の指示に従うことは必須。至って普通のことだったと思います。


そして戦争特需に沸く臼杵鉄工所は、下り松(さがりまつ)~板知屋にあった埋め立て地を造機工場として買い取り、1943年には、この土地の下り松側に軍の要請で東九州造船株式会社を設立(現在は㈱臼杵造船所がある場所)。戦況と共にますます事業は拡大していくのです。現在も臼杵造船所の事務所前には二代目・豊吉の銅像があります↓

そして平和な現在、戦争とは関係のない船を作り続けています。

写真の赤い船は8月23日(今週の金曜!)に進水式が行われる新船↓

ザッバーン!と進水する光景はなかなかのインパクト。餅撒きなども行われるそうなので是非見学に出かけてみてはいかがでしょう?


軍に無理難題を押し付けられる

1942年までは戦争の拡大と共に事業も大きくなった臼杵鉄工所とその関連会社。しかし戦況が行き詰ってきた1944年1月に、軍に無理難題を押し付けられます。その極みが「地下工場の建設」。この建設命令がかなりブラックな内容なので、「頌寿」の178ページからそのまま書き出しておきます。


一、国のため、また軍の命令として地下工場を建設せよ。

一、八月のはじめには操業出来ること。

一、地下工場に要する費用は、軍より一銭たりとも補助しない。(←「エーッ!」という豊吉の心の声が聞こえてきそう)すべて会社にて負担のこと。


この時代、軍に歯向かうことはできなかったのでもう言われたらのむしかないのですが、それにしてもこれを伝えた上条大佐という人も本気でこれが「国民として当然」の義務という気持ちで伝えたのでしょうか?

この戦争自体が現在のブラック企業に通じるところが多々あるのですが、この「一蓮托生」の民族的考えにはいつも危険を感じずにはいられません。


いずれにしても、臼杵城址公園に地下兵器工場を作る、という三浦按針もビックリの大河ドラマのようなプロジェクトから図書館建設までは来週の後編でご紹介します。


この城のどこかに地下工場が↓