先週に引き続き、臼杵が生んだ偉人「田中豊吉」の波乱万丈人生について。
前回のブログはコチラからどうぞ→「初代・田中豊吉~二代目田中豊吉へ」
今回は、太平洋戦争に巻き込まれた臼杵鉄工所時代から戦後の図書館寄贈まで、彼の人生の後半戦についてご紹介したいと思います。
臼杵城址公園に地下工場を建設する
太平洋戦争も末期になってきた1944年1月、旧日本軍は本土決戦も視野に入れ、極秘に兵器を生産できる地下工場建設を、大分県では唯一臼杵に作ることを決定。臼杵城址公園を使って行うように、二代目・田中豊吉率いる臼杵鉄工所に命令しました。先週も書きましたが、もう一度この命令内容を確認しておきましょう
一、国のため、また軍の命令として地下工場を建設せよ。
一、八月のはじめには操業出来ること。
一、地下工場に要する費用は、軍より一銭たりとも補助しない。すべて会社にて負担のこと。
何度見てもブラックです。
大体臼杵城に地下工場を作るなんて臼杵鉄工所とは無縁の作業で
「え!?ここに掘るんですか!」
ということだったと思います↓
そしてそもそも、臼杵公園は国有地。それを民間企業や個人が簡単に買えるはずありません。案の定、管轄である熊本財務局からは最初一蹴されたようです。しかし戦争というものは恐ろしいもので、軍が横槍を入れることによって払い受けに成功。そして昭和の男たちはまさに「下町ロケット」。トライしてみるし、実際に建設をやってのけるのです。
地下工場の入り口トンネルを探る
この地下工場、田中豊吉米寿記念本「頌寿」によると、祇園洲側に2本、城南側に1本のトンネルがあり中で連結されていたそうです。その坑道は高さ5メートル、幅6メートルというもので、私はどうしてもこれが見たくなってしまいました。
豊吉の原点となった店、畳屋町にある「田中商店」に聞いてみたのですが、「戦後崩落して潰れてしまったみたいだよ」とのこと。臼杵城址公園にはたくさんの防空壕があったのですが、数年前に崩落の危険性があったために市が壕を石で塞いだそうなのです。今となってはどこが地下工場のトンネル跡だったのか、防空壕だったのか、調べるのは至難の業なのですが「その名残だけでも」という思いで、先日臼杵城址公園の周辺を自転車で回ってみました。すると、現在の税務署と警察署の間くらいの場所でそれっぽいものが!↓
場所的には城南でも祇園洲でもないのですが、これは「かまぼこ型」と言われたトンネルの痕跡では?
さらに、祇園洲側でも怪しい一角を発見↓
ブルーシートの向こうのミニドアも気になります。このブルーシートをめくり上げたいところですが、どう見ても崩落途中なので、そっとしておくべきでしょう。
トンネルに関しては、今後も市役所などが持つ資料をチェックさせていただき探ってみようと思います。
臼杵城址公園を臼杵市へ寄贈
臼杵城址公園に地下工場を築いた二代目・豊吉。しかし、稼働を始めた途端物資不足になり、更なる弾薬などを製造することも叶わずそのまま終戦となりました。
5万円で国と臼杵城址公園の売買契約をした時の条件が「地下権は臼杵鉄工所の所有、地上権は臼杵町に寄贈する」というもの。終戦後、彼は地下権も含めて臼杵城址公園を丸ごと臼杵町に寄贈しました。
今我々が桜まつりなどで楽しんでいる臼杵城址公園では、彼のこの社会奉仕に関する功績碑を見ることができます↓
臼杵の発展を願う
田中豊吉が尊敬していた臼杵出身の人物は3人いましたが、その中には荘田平五郎もいました。前回のブログでも書きましたが、彼は三菱の基礎を作り明治生命を創立した、明治時代の中でも傑出した実業家でした。後に臼杵初の図書館を私費で建設、寄贈した人物でもあります。
昭和42年からその図書館長となった高橋長一氏の回顧によると、平五郎の郷土愛について彼は豊吉と度々話をしていたそうです。大金をはたいて国から購入した臼杵城址公園を、戦後すぐに臼杵に寄贈した豊吉には何か強く感じるものがあったのかもしれません。
そして1969年10月19日、臼杵鉄工所の創立50周年記念祝賀会で、豊吉から「図書館寄贈目録」が当時の市長に手渡されました。その額はなんと3,000万円!同時にこの図書館寄贈をお祝いして、大分銀行も100万円分の図書の寄贈を行いました。
私はその時代を生きていませんでしたが、高度経済成長期というのは物事が凄い勢いで進んだ時代なのだと思います。そんな中で臼杵を代表する企業が、臼杵市を文化的に成長させようと大金を図書館に使ってくれた、というのは臼杵出身者として誇りに感じます。
このように図書館寄贈はあれよあれよという間に実行に移され、1970年6月30日に現在の本館が完成したのです。ちなみに、下の写真にある本館前の瓦屋根の渡り廊下は建築当時には無く、小石と岩が並ぶ枯山水のような小さな前庭が広がっていました↓
現在の臼杵図書館に残る豊吉の足跡
現在、臼杵市立図書館本館には、豊吉の写真と共に寄贈を記したパネルがあります↓
恐らく私が子供のころから「この図書館は豊吉さんが作ってくれたんですよー」と紹介していたに違いないのですが、四十路の今まで全く気付きませんでした。これからは豊吉さんに感謝しながらこの図書館を使用させていただこうと思っています。
臼杵造船所での進水式を生まれて初めて見る
豊吉が資本参加した旧東九州造船株式会社の本社は、現在、臼杵造船所株式会社となり、造船を続けています。先週の23日(金)、生まれて初めて進水式を見ました。元々は戦争の為に作られた会社ではありましたが、戦争とは無縁となった現代の進水式の様子を最後にレポートしておきたいと思います。
臼杵には下ノ江にも造船所がありますが、そちらの進水式はプール式で、この下り松(さがりまつ)工場での進水式は陸から海へ滑り降りるタイプ。
「下り松の進水式のほうが迫力あるよ」
と、ご近所さんや私の事業のお客さんなどから聞いていたので楽しみに出かけました。
造船所に入るとすぐに目に飛び込んできた巨大ケミカルタンカー↓
全景を写真に収めることができません。
すぐに船主さんが入場し、特別に組まれた舞台では花束贈呈などが行われ、その後餅撒き↓
この夏、祭り・イベント・お祝い事などで何度お菓子撒きや餅撒きに遭遇したか数えきれないほどです。ちなみに埼玉に住んでいた十数年の間、餅撒きや菓子撒きに遭遇したことは一度もありませんでした。
臼杵市では何かめでたいことがあるととにかくいろいろ撒くようで、これまで何度も書きましたが、老若男女関係なく皆が本気で拾います。私はどのイベントも写真撮影していたので今夏本気で拾うことはしませんでしたが、本気でやったら何個拾えるのか、来夏は全力でチャレンジしてみようと思います。
餅撒き後、船の名前が発表され、その後支えが外され進水↓
この記事を書いていて気づきましたが、進水の様子を撮影した動画をどうやら消してしまったようです・・
ちょっと感動的でさえあったので、皆さんにもその動画を見ていただきたかったのですが、痛恨のミス!船はそんなにドンドンできるものではないので、次回の進水式を首を長くして待とうと思います。
2週に渡ってお送りした、臼杵の偉人・田中豊吉の人生、いかがでしたでしょうか。もちろんどんな人にも様々な喜怒哀楽の出来事があると思うのですが、彼のように戦争を含む大きな歴史のうねりの中で、郷土にこれほど貢献できた人は多くないと思います。
現在でも臼杵図書館や臼杵城址公園、臼杵造船所などで彼の足跡に触れることができます。是非時間のある時に記念碑などご覧になってみてください。
最後に、本記事の製作に田中豊吉米寿記念本「頌寿」をお貸しくださった田中商店及び旭プラザの皆さま、ご協力をいただきましたことお礼申し上げます。
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